余命宣告された方や
難病で先が見えなくなっている方の
カウンセリングの機会を得ることがあります。
良くなるはずで始めたはずの
治療法への不信感
「頑張れ! きっと治るから」とほほ笑みかける
まわりの人への不信感
自分の体でありながらコントロールできなくなった
自分への苛立ち、情けなさ
同じ病気の方が亡くなっていく...
死への恐怖
体力と共に、生きる気力を失い
愛を感じる余裕がなくなり
生かされていることを忘れ...
「また、適当な慰めの言葉を 聞かされるのか」とでもいう
光の無い疑心暗鬼の目で、その方は私を見つめるのです。
只々、とことん寄り添いながら
硬くなった心をあたため、開かせていく
時間が必要な場合もあるけれど
ある一言で、厚い心の壁が
崩れ落ちる事もあったりします。
思考の癖や思い込みが、なお一層
その病を悪化させているような場合には
思考の調整や
自分が愛されている感覚を呼び戻す事で
改善のスピードが増すのは、よくあることです。
でもやはり
人には天命というものがある...
たとえ若くても、残念ながら
そう感じざるを得ない時もあります。
「貴方にとって死とは、どんなイメージですか?」
もしかすると
助からないかもしれない...
そう思っている周りの人が聞いたら
ドキッとするような質問を、私はするのです。
勿論、その方の心情やそのタイミングには
細心の気配りをしながらではあります。
「死」ってなんでしょう?
人は生まれてきたら必ず死ぬものなのに
一般的に「死」は
忌み嫌われ、悲しく、辛く語られる事が多く
死後の世界に恐怖を抱いている方も、いらっしゃいます。
何よりもこの世での、縁深き人との別れは
言うまでもなく悲しいものです。
私は特定の宗教も思想も、特に支持してはいませんが
死後の世界は、おそらくあるし
恐ろしいものではないと捉えています。
そしてまた、魂の存在を認め
それは肉体無き後もあり続けると、感じています。
誤解の無いように申し上げると
何をどう信じようと信じまいと、個人の自由ですので
受け入れがたい方は、それでいいと思います。
この場合は、正誤をどうこう言ってもあまり意味がなく
私自身は経験上そう思うし
そのように考えた方が、死に怯えることなく
ギリギリのその瞬間まで
穏やかに生きられるのではないかという事です。
「あのラインの先は、崖かもしれない」と教わるのと
「あのラインの先は、芝生だからね」と聞くのとでは
そのライン間近の過ごし方や心持ちが
間違いなく変わってくると思うのです。
「生きる」ために「死」を見つめる
「悔いなく生きる」ために「死」を意識してみる
「この世での生」を「死」の方向から見つめると
もっとしっかり「命」を生きたくなる
もっと「ありがとう」を言いたくなる
もっと瞬間瞬間を、些細であっても楽しみたくなる
「死」を語り「死後の世界」を認識することは
なにも死んでからどうこうと、後の心配をするためではなく
「死」への恐怖を取り去り
まさにその瞬間まで
「今、ここ」をしっかり生きたくなる
その感覚を呼び起こす為だと思っています。
だれでも、自暴自棄になる事や
人間関係に悩むことや
何もしたくな~いって、気分になる事や
まあ、色々ありますよね?
そんな時、ちょっとその思考を休憩しながら
「で、もし明日死んでも大丈夫?」と
自分自身に問いかけてみるのです。
人間は必ず死ぬとわかっているのに
明日死ぬかもしれないとは、
多くの場合考えていないでしょう。
死の淵に立たされずとも
「今、ここ」を、もっと味わって生きようと思う
楽しんで、心豊かに生きたいと思う
愛ある態度で、接したいと思う...
死を考えると
つまり、この世で生かされている時間に
制限がある事を思い出すと
きっと丁寧に「肉体ある命」を
生きたくなると思うのです。