余命宣告された方や
難病で先が見えなくなっている方の
カウンセリングの機会を得ることがあります。
良くなるはずで始めたはずの
治療法への不信感
「頑張れ! きっと治るから」とほほ笑みかける
まわりの人への不信感
自分の体でありながらコントロールできなくなった
自分への苛立ち、情けなさ
同じ病気の方が亡くなっていく...
死への恐怖
体力と共に、生きる気力を失い
愛を感じる余裕がなくなり
生かされていることを忘れ...
「また、適当な慰めの言葉を 聞かされるのか」とでもいう
光の無い疑心暗鬼の目で、その方は私を見つめるのです。
只々、とことん寄り添いながら
硬くなった心をあたため、開かせていく
時間が必要な場合もあるけれど
ある一言で、厚い心の壁が
崩れ落ちる事もあったりします。
思考の癖や思い込みが、なお一層
その病を悪化させているような場合には
思考の調整や
自分が愛されている感覚を呼び戻す事で
改善のスピードが増すのは、よくあることです。
でもやはり
人には天命というものがある...
たとえ若くても、残念ながら
そう感じざるを得ない時もあります。
「貴方にとって死とは、どんなイメージですか?」
もしかすると
助からないかもしれない...
そう思っている周りの人が聞いたら
ドキッとするような質問を、私はするのです。
勿論、その方の心情やそのタイミングには
細心の気配りをしながらではあります。
「死」ってなんでしょう?
人は生まれてきたら必ず死ぬものなのに
一般的に「死」は
忌み嫌われ、悲しく、辛く語られる事が多く
死後の世界に恐怖を抱いている方も、いらっしゃいます。
何よりもこの世での、縁深き人との別れは
言うまでもなく悲しいものです。
私は特定の宗教も思想も、特に支持してはいませんが
死後の世界は、おそらくあるし
恐ろしいものではないと捉えています。
そしてまた、魂の存在を認め
それは肉体無き後もあり続けると、感じています。
誤解の無いように申し上げると
何をどう信じようと信じまいと、個人の自由ですので
受け入れがたい方は、それでいいと思います。
この場合は、正誤をどうこう言ってもあまり意味がなく
私自身は経験上そう思うし
そのように考えた方が、死に怯えることなく
ギリギリのその瞬間まで
穏やかに生きられるのではないかという事です。
「あのラインの先は、崖かもしれない」と教わるのと
「あのラインの先は、芝生だからね」と聞くのとでは
そのライン間近の過ごし方や心持ちが
間違いなく変わってくると思うのです。
「生きる」ために「死」を見つめる
「悔いなく生きる」ために「死」を意識してみる
「この世での生」を「死」の方向から見つめると
もっとしっかり「命」を生きたくなる
もっと「ありがとう」を言いたくなる
もっと瞬間瞬間を、些細であっても楽しみたくなる
「死」を語り「死後の世界」を認識することは
なにも死んでからどうこうと、後の心配をするためではなく
「死」への恐怖を取り去り
まさにその瞬間まで
「今、ここ」をしっかり生きたくなる
その感覚を呼び起こす為だと思っています。
だれでも、自暴自棄になる事や
人間関係に悩むことや
何もしたくな~いって、気分になる事や
まあ、色々ありますよね?
そんな時、ちょっとその思考を休憩しながら
「で、もし明日死んでも大丈夫?」と
自分自身に問いかけてみるのです。
人間は必ず死ぬとわかっているのに
明日死ぬかもしれないとは、
多くの場合考えていないでしょう。
死の淵に立たされずとも
「今、ここ」を、もっと味わって生きようと思う
楽しんで、心豊かに生きたいと思う
愛ある態度で、接したいと思う...
死を考えると
つまり、この世で生かされている時間に
制限がある事を思い出すと
きっと丁寧に「肉体ある命」を
生きたくなると思うのです。
人と人とのご縁は勿論のこと
物との出逢い 仕事との出逢い
情報との出逢い...
日々様々な出逢いを経験するわけですが
ここには、自分の意思だけでなく
偶然に見せかけたかのような
なんだかの力の引き合わせが
存在するようにさえ感じます。
「たまたま」「偶然にも」
「なんかしらんけど…」
そんな風に感じる出逢いこそ
自分の意志や、人間関係
時間的な常識を超え
そんな稀有なストーリーを経てまで
出逢う意味があるのかと感じたり
だから、大事にしたいし
実際そのように感じざるを得ぬ体験を
よくさせられます。
また、人だけでなく
物にしても仕事にしても
すべては振動するエネルギーであり
波動的に解釈すると
同じ様な波動レベルのものが
引き合うのも事実です。
そう考えると、死滅を伴わない別れは
波動的に異なったから
合わなかったからとも言えるわけで
悲しみや喪失感だけを感じたり
ましてや相手を悪く思ったりする必要は
全く無いように思います。
良くも悪くも、別れもまた
波動レベルの違いや
自然の摂理にそった出来事の一つ
そう思うからこそ
例えば目の前を去ろうとする人を
無理に引き留めようとは思いません。
「波動的に何か異なったんだな~」って
これって法則ですから
ただ受け入れるのみ。
自分の至らなさが招いた別れの場合には
勿論反省も必要ですが、それも経験。
何事にも心をつくし
大切にはしたいと思いつつも
執着はしない、そっと見送るのです。
また新しい理論の商品や
素晴らしい情報が入ってきたときに
「あの方には、扱えないだろう」とか
「我々が扱う商品ではない」とか
感じる場合もあります。
それはデーターや物理的な判断に加えて
その物と人のエネルギーともいえる部分が
波動的に違いすぎる場合です。
余談ですが、ただじっと
その本質や事の流れを見つめると、
何故そうなってしまったか
何故そうなるのか
またその商品や情報の
データーでは読めないけれども
確かにあるエネルギー的な物が
透けるように
よくわかったりするものです。
「良い出逢いに恵まれたい」
もしそう思うなら
自分を高めればいい
「好まない出逢いや出来事ばかりだ」
もしそう感じるなら
自分の波動域が下がっているから
様々な人、グループ、物、仕事、情報...
ご縁に感謝しつつ、ご縁を楽しんで
ご縁の流れに逆らわず...
そして何よりも
縁の質そのものを変えるのは
自分の生き方、考え方次第だと
そう思うのです。
あたたかく柔らかく
相手の全てを受け止め
寄り添いなからも
凛としたニュートラルな自分軸を
天と地にしっかり立てる
真の癒し人とは
その柔らかで深い人柄や
発せられる言霊力だけではなく
また波動高きエネルギーを
惜しみなく注ぐだけでもなく
相手のエネルギーの全てを
自己の中に感じながらも
ぶれず飲まれず
批判せず
依存させず
包み込みながら
気づかせ昇華させる
宇宙のような大きな懐と
愛とパワーの持ち主
真っ直ぐに奥深く
その人の瞳を見るだけで
相手を癒し、昇華させる事の
ほとんどが成されていく
テクニックは
おまけのようなもの
…そう在りたい…
過去にとらわれず
未来を憂えず
「今ここ」を精一杯生きよう
生きたいとそう思いつつ
現実はなかなか上手くいかなかったりする
過ぎ去った過去の事をウジウジ考える...
まだ来ぬ未来の心配をグルグル巡らす...
そこまでネガテイブにはならずとも
料理をしながら仕事の事を考えている時点で
「今ここ」の密度は低くなる
過去~現在~未来
時間軸を横一本、直線で表すならば
現在「今」のこの瞬間は
その横軸の上に、点で示される
今を生きる、濃密に生きるという事は
その点の意識を
垂直な縦線方向にどこまで長く、濃く
感じられるかだ
五感の延長線上に第六感があり
そして広く深く、宇宙意識へもそれは繋がる
ただ流されるような
何かに追われるような
淡い横軸ではなく
一瞬を丁寧に感じて生きる
深い縦軸を沢山刻んでいきたいと
最近忘れていた自分に、そう言い聞かす
ご年配者にはきっと
足腰の負担が大きいだろうなとか
その場所からは
見えにくいんじゃないかなとか
男にはわからないけど
女性はそういうものなんだとか
自分自身が今そう感じなくても
隣人の感覚にあちこちで
思いをはせる事はできると思う
経営者なら社員の事を
売主ならお客さんの事を
男性なら女性の事を
年齢を重ねても若き人の事を
立場の違う人や
年齢の違う人や
環境の違う人や
性差のあるパートナーや
そして目の前の人間関係だけじゃなく
対人間
対動植物
対自然界
対宇宙・・・
思いを拡大して生きると
勝ち負けとか
損得とか
正誤とか
二極の価値観の中では
もはや生きづらくなる
貴方も私も
個人も社会も
人間も自然も
周りに思いをはせ
共感して共生する
共感力と共生力は
きっと「愛」その物で
様々な循環を守り
そして生みだす(のだと思う)
循環しない関係は宇宙の法則から外れ
いづれは朽ちていく(のかもしれない)
「生かされている」という
最も基本的な感謝を
忘れてしまっているとか
どんなに他者に自然界に
支えられて生きているかを
感じられない傲慢さとか
自分の周りに先祖代々に
どれだけの人が関わっているかが
見えていない視野の狭さとか
共感力に乏しいのは
生まれ持った性格もあるだろうが
貴方がいて私が在ることを
全体の中の個であることを
そして感謝と愛を
忘れてしまっているのかもしれない
実は「個が全体である」ことも
見えていないのかもしれない
自分の都合しか見えていないなら
もう少し視野を
いや、思いやりを広げてみよう
お年寄りや持病のある方は
貴方と同じ免疫力では無い事を
無知からくるお気楽さには
愛が足りないという事を
貴方が今欲しい物は
あの人にも必要だという事を
不安でいっぱいな人も
深呼吸してハートを広げて
一人じゃない事を思い出してみよう
家族がいる 仲間がいる
同じ悩みに頭を抱える人も沢山いる事を
視界を広げると、ほらそこには
感謝も沢山ある事を
身を削って今必要な業務に当たって下さる方々がいる
いつもの作業に除菌やらの手間を加えてくれている人がいる
正しい情報をシェアし、必要な準備を促してくれる人がいる
そして情報操作されたマスコミに流されず
不条理な世の中の仕組みに気付こう
まだこれから続くであろう出来事に
感情を恐れの方向に持って行かない事
すべき事をしっかりしたら
ガハハと笑って免疫を落とさない
小さな喜びを、楽しみを見つけて
心は朗らかでいよう!
心配や恐怖の心が先走る事なく
でも事態を甘くみる事もなく…
また事象は常に多面的であるわけで
人の行動が制限されて
大気汚染の減った地球は喜んでいるかもしれないし
人間のエゴと偏りに気づく人が増えるかもしれない
「当たり前」を見直すきっかけになるかもしれない
忘れかけていた「感謝」に気づくかもしれない
「思いやり」の心を呼び覚ませるかもしれない
人間が手を加えたであろうコロナウィルスが
人種を超えて広がっている事に何を感じるだろう?
今この時代に生きる私達への
試練の時ではあるけれど
大きな転換期であり、学びの時であり
…たとえ仕組まれたものであったとしても…
肝を据えて備え
そして心を開いて、朗らかにと思うのです
外の現実を見て備えたら
心の内側もしっかり観て整えよう
人の数だけものの捉え方があり
そして「その人の現実」が存在するのだから
自分はどう在りたいのか?
どんな世界で生きたいのか?
どんな未来を造りたいのか?
個々の行動と思いと祈りが
大難を小難にし、乗り越え
そして新しき良き時代へと続きますように…
自分にとって都合の悪い人を言葉を
無意識に否定し排除し
自分の中の何かを守る
時によっては
いつわりの愛という字を振りかざし
自分の中の何かを守る
無意識に反応するキーワード
古傷の痛みを
今に呼び出し苦しんでいる
見てごらん
見たくないんでしょう?
ごまかしてきたのを
知っているんでしょう?
強いふりして心の奥深くに隠しているもの
恐れ
プライド
悲しみ
寂しさ
虚無感・・・
貴方が人に見られたくないモノの正体
貴方が見るのを恐れているモノの正体
貴方が大事だと思い込んでいるモノの正体
貴方を無意識に操るモノの正体
まだソレは必要?
本当にソレは必要?
見て欲しい
怖いなら私が寄り添おう
他人のせいにしてきたことの殆どは
自分の中のソレのせいだと気付いて欲しい
恐れずにしっかり見て感じて欲しい
まだソレは必要?
本当にソレは必要?
硬く硬く閉ざされた扉の奥に
後生大事にしまっているものの正体
ソレを捨てたら空っぽなのか?
ソレを捨てたら楽になるのか?
ソレをもし手放して
新しくスペースが出来るなら
貴方は不安になるのか?
貴方は安堵に包まれるのか?
思い出して欲しい
そこに本来あったモノを
分からないなら私が寄り添おう
とことん思い出して欲しいから
「プライド」とは?
自分の存在そのものに対する、自尊心や
学問や仕事、研究等で何かを達成したり
高価、貴重なものを持っていることによって得られる
満足感や自信のようなもの。
後者は、他者よりも優れているとか、日本初だとか
他との比較で感じることが多いように思います。
例えば勉強も運動も苦手な、クラスでもぱっとしないA君。
彼が何かのきっかけで猛烈に数学を勉強して、クラスで一番になったとします。
「すごい!」「見直した!」「頭いい~!」
A君は生まれて初めて、クラスで注目の的、人気者になりました。
「よし、 数学だけは誰にも負けない! 勉強するぞ!」
この称賛を浴びて生まれてた彼の「プライド」は
彼に自信とやる気を与え、この場合はプラスに働きました。
では、社内でも仕事のできる女 Bさん。
その聡明な仕事っぷりに、多くの部下に慕われていましたが
ある時、自分の可愛がっていた部下に、その地位を抜かれます。
この時にカチンときたのは、彼女の「プライド」から
部下の頑張りの成果を素直に喜べず、嫌な女へと変貌していきます。
この場合の彼女に対しては
「しょうもないプライドは捨てたらどう?」と言いたくなるかもしれません。
「あんたにはプライドも無いのか~! もっとプライドを持て!」
「そんなくだらないプライドなど、捨ててしまえ!」
どちらも真逆ながら、どこかで聞いた言葉のはずです。
という事は、「プライド」という感情そのものに、
良し悪しがあるのではなく
そこからやる気や自信に繋がって
頑張る原動力となっていくのか
それとも、自分の主義や考え方への異常なる固執や
はたまた嫉妬にまで囚われてしまうのか...
私達のおかれた背景や人道的なステージによって、
良し悪し、要不要が生まれるようです。
また少し視点を変えてみると
飢餓や病に怯えて、生きる事すら難しい国の人々には
プライドが何かすらわからないかもしれません。
そう思うと、プライドが生まれるという事は
ある意味有難いことだとさえ感じます。
ここまで「プライド」を例えにとりましたが
どんな感情であってもそこに執着しすぎたり
その一点しか見えなくなってしまうと
よからぬ第二感情へと変化していき
排他的になってしまったり、他者を傷つけたり
何より自らを、苦しめる種を作ってしまうかも...という事です。
自分の中に芽生えた「プライド」と
もっと広くいえば「感情」と
否定するでもなく、固執しすぎるでもなく
心を大きく、上手に付き合っていきたいですね。
昨日の夕暮れ時、雨が止んだのか
西の空の神秘さに誘われてベランダに出た
重いグレーの空の隙間から
神々しいばかりの光が覗く
その景色もなかなかで
自分の感情と重ねてみたりもしたけれど
ふっと、真逆の東の空に目をやると
ものすごく大きく鮮明な虹がそこにあった
一枚の写真に納まりきらない
大きな虹を見ながら
最初に見るつもりのなかった
逆の空の虹を見ながら
自分の思い込みと真逆の方に
新しい展開や気づきがあるかもしれない…とか
目線や考え方をふっと変えてみると
もっと大きな喜びに出逢えるかもしれない…とか
こんなに鮮明な虹でさえも
皆が気づいて見ているわけではなく
でも確かにそこにある
既にある素晴らしいものを、大切な宝を
見逃してはいないだろうか…とか
そんな事を感じたりしていた
人生の諸々も
そのタイミングを捉えた者
そこに、例えば反対側に気づいた者
そこからもっと深い部分に思いを馳せた者
同じ世界であっても
何を見て、何を感じ取るかは
人それぞれであり
自分の状態にもよる
左脳優勢型の仕事をしていると
ついつい右脳的感覚が鈍くなってしまう
でもやっぱり私は
大きな虹に気づき…例えば反対側の窓から…
そして虹のエネルギーを感じるような
そんな感度を保っていたい
…そう思う
家族を送り出すときに
我が家ではいつもこう言うのです。
「いってらっしゃ~い 楽しんで!」
そうです!
映画や旅行や遊びに行く時だけではありません。
試験、試合、プレゼン、コンテスト、ステージ発表会...
一般的には、不安感や緊張感を持って臨む日にもです。
子供たちがまだ十歳前後の時には
この言葉の真意がわからずに
「こんな日に、楽しむのは無理~」
「流石に今日は、楽しめないわ」
そう言いながら出掛けたものです。
「楽しむ」は文字通り
心からワクワク感や満足感を持って...と
説明するまでもありませんが
自分で好きでやっている事ならともかく
試験やプレゼンや、嫌でもせざるを得ない事まで
そう楽しめるものではない...と思われるかもしれません。
でも「頑張る」よりも「楽しむ」方が
より良い結果が出ることは、数値的にも実証済みなのです。
こうなってくると、使わない手はありません。
キネシオロジーテストでは「頑張る」の効果の低さに
唖然とする方もいらっしゃるでしょう。
まずその「やらされている感」が何なのか?
どうせやるならば、思考そのものを
「嫌イヤ路線」から「楽しむ路線」に
切り替えてみてはいかがでしょうか?
脳は案外いい加減で、固定概念さえ外せば
コントロールできるものなのです。
もうちょっとだけ言うと
楽しむからこそ「ON」になる
遺伝子のスイッチと言えるものまで存在するようです。
最近は、スポーツ選手のインタビュー等でも
「楽しみます」「楽しめました」というコメントが
一昔前よりも随分増えたように感じます。
傍からみると、ものすごく頑張って練習しているのに
本人は基本的に好んで、楽しみながらやっている
または、そのように感情をコントロールしているからこそ
そこまで苦には感じないのでしょうね。
メンタルトレーニングでも「楽しむ」は
確実に使われる時代になりました。
「楽しむ」には明らかに余裕があります。
私はよく「思考に隙間を作ろう」という言い方をするのですが、
心身共に、程よい脱力感が感じられます。
逆に、既に試合前のインタビュー時から
「これはまずいな」...と感じる事もまたあります。
「頑張る」には、必死感が大きく感情を占めている様に感じます。
自分を追い込む事自体が「快感=楽しさ」になる場合はともかく
ちょっと窮屈で、余裕が無い状態です。
これはあらゆる場面で言えることですが
余裕がないと、上手くいくはずのことまでもが
不本意な結果になってしまった経験はありませんか?
視野も確実に狭くなりますよね。
こうなってくると、何か予定外の事がおきた時には尚更
思考も体も機転がききません。
試験、試合、プレゼン、ステージ発表会
例え準備万端でなかったとしても
楽しむぐらいの余裕をもって...意識的に作ってでも望む
これには、相当の価値があります。
だから「いってらっしゃ~い 楽しんで!」なのです。
また、どうしても心が振るわず
その学習や仕事に価値が見いだせないならば
思い切って「やめる」選択をするのも有りだと思います。
体感としてわかる方も、いらっしゃると思いますが
深い部分での同意=魂の同意が、無い場合です。
勿論、それが可能な場合ばかりではありませんが
自分の思い込みや習慣だけで「やるべきだ」
そう思いこんでいるだけの事も、案外沢山あるものです。
どうせならば、自分の大事な時間を
本当にやり甲斐や楽しみを感じる事に費やし
それが誰かの笑顔にもつながれば、尚嬉しい!
私ならばそう思います。
言うまでもなく、無条件に好きで楽しめる事は
どんどん生活に取り入れたいですね。
ワクワクする時間を多く過ごすことは
ご自分の波動自体も、間違いなく上がります。
一生懸命に頑張っている そこの貴方!
少し思考を緩めてはいかがですか?
「頑張るだけ」では、もったいないのです。
どうせやるなら「楽しんで」
より良い結果と、何よりも充実感いっぱいの時間を
積み重ねたいものですね。
あっそうそう、ぐうたらに生きている貴方!
余計なお世話かもしれませんが
もうちょっとだけ、頑張ってみてはいかがですか??...
当たり前の事ですが
人ってそれぞれに、考え方が違いますよね?
でも違う事はわかっているつもりでも
本当にその違いを理解し
受け入れられるのかとなると
時にはシビアな場面も
あるのではないでしょうか?
例えば「愛」は、おそらく誰もが
素敵な感情だと捉えているかと思いますが
十分な「愛」を与えられずに育った子供には
「愛」がどんなものかなど
実際にはわからないのかもしれません。
その子の捉えている「愛」という感覚と
貴方の感じる「愛」は
おそらく同じではないでしょう。
その感覚の違いを、いったいどこまで
理解できるでしょうか?
文字にすると同じ単語
例えば「愛」であったとしても
また同じ状況を、一緒に経験したとしても
その感じ方、意味役割や
そこから広がっていくその感情の行先は
まさに人それぞれ...
「なんでそうなるの!」
自分にとっては、カチンとくるような発想も
その方には何の悪気も無かったり
「わかる、わかる」とは言ってくれたものの
経験や性格の違いからか
その思いの浅さ、軽さを感じてしまったり
説明してもしても
感覚的には分かり合えない
交わらないと感じる事があったり
自分には溢れるほどに味わえる情感が
いまひとつ相手には感じてもらえなかったり
当たり前だと思う感情が
あの人には理解不能であったり
とっても大事にしたい思いが
煩わしいものでしかなかったり
また、立場が逆の場合もしかり...
相手の言動や感情そのものの違いを
どうこう言い嘆く前に
せめて その感情の出所を
じっくりと見つめてみる事は
その方の置かれた状況だけではなく
生きてきた背景や生き様をも
受け入れる理解に繋がるのだと思うのです。
そしてその違いを受け入れようとする想いは
自分自身の視野を広めるだけではなく
懐を深める愛の拡大そのものに
繋がると そう思うのです。
例えば、自分とは違ったタイプの
自由奔放、ちょっと無責任にさえ思える
ハチャメチャだけど、凄く楽しそう
そんな風に生きている友人を見て
「いいな、あんな生き方もかっこいい!」と
素直に称賛のエールを送れるのか?
「いい歳してやりたい放題、お気楽な奴め!」と
自分の抑え込んだ欲望を
嫉妬に変えて投げてしまうのか?
例えば、自分よりも出世して
富も人望もあるように思える友人を見て
「蔭ではきっと、凄い努力があったに違いない。素晴らしい!」と
素直に称賛のエールを送れるのか?
「大した実力も無いくせに、運がいいだけ。偉そうに!」と
自分の苛立ちを、批判に変えて強がってみるのか?
ほとんどの方が、多かれ少なかれ
似たような感情を、味わった事がある
または理解できると思うのですが
その素直に喜べない、相手を批判したくなるような
「チエッ!」と心乱されるような
感情の裏側にある
プライドやトラウマや、思考の癖や
またその時の心理状態に
ハッと気づいているでしょうか?
こんな風に感情が乱れるのは
多くの場合、相手が原因ではなく
そこに反応してしまう自分自身の内面の問題です。
軽度の場合は、まあともかくとして
振り返ってみると、いつも同じような内容、場面で
心乱れていませんか?
実は言われて、見せられて
「イラッ」とする点、「チクッ」とする点は
比較から生まれる、ねたみやひがみや
自分自身で少しわかっていながらも
素直には認めたくない
邪魔なプライド、思考の癖
または未消化の不満、トラウマ
邪魔なと申し上げたのは
それをうまく原動力に変えられる場合もあるわけで
プライドも使い方次第という意味です。
いかほどの価値があるのでしょう?
そのプライドや意地は
いったい、何を守っているのでしょう?
そのトラウマは
何の為、まだ背負っているのでしょう?
自分の感情の出所に気づき
自分自身をより深く見つめ、知り
そしてしっかり受け入れる
別に立派な人を志そう!...という事でもなく
そうすればもっと、心穏やかに
楽になれるのに
もったいないな~と思うのです。
そして本当の意味ではそれが出来てこそ
他者をもゆがめることなく知り
そのありのままを
受け入れられるのかもしれません。
そんなのどっちでもいいという方も
個人の生き方なので、別にOKなのですが
「受容」が自身の幸せ感を増すという事は
間違いないと思うのです。
「波動」とは、簡単に言うと
振動している素粒子のエネルギーの事です。
私が興味を持ち始めた30年ほど前からすると随分耳慣れた言葉となりました。
物質を一番小さい単位にして見てみると素粒子が超高速で振動していて
その物質全てに、特有の波動、周波数があります。
この微細なるエネルギーを数値化して計る機械もありますが
自身で感じることができる繊細な感覚の持ち主もいらっしゃいます。
単なる物質、命あるものは勿論目に見えない思考や感情に至るまで
波動は存在すると考えられています。
さて今回は、量子物理学の勉強をしたいわけではなく
ご自分の考え方に取り込むときっと役に立つよというお話です。
既にご存知の方も、心で理解しているのかチエックしてみてください。
波動には法則があるのですがその中で、特に知って頂きたいのが
「同レベルの波動は引き合う」というものです。
この法則を、頭ではなく心で理解できると
自分の出逢う人、仕事、出来事の全ては多かれ少なかれ、
自らが引き寄せた結果だと受け入れることができると思います。
つまり、何事も他人や外のせいにする事なく
目の前の現実の多くは「自分自身が創造している」という事です。
「え~? でも会社から一方的に言われて」と言ったような声も聞こえそうですが
その理不尽だとおっしゃる会社も他ならぬ、ご自身が選択したはずなのです。
また、好ましくない現象が起きたとしてもご自身の波動をぶれなく高めれば
不思議な形で、現象が改善する事は私も何度となく経験してきました。
分からないところではあります。
周りにとやかく言う前に、まずは自分自身を
エネルギーレベルから、思考から、どうぞ立て直してみてください。
具体的な手法で解決するにしてもまずその部分を立て直すと
その後の流れがスムーズになる事にきっと気づかれると思います。
同レベルの波動が引き合うという事は自分の波動レベルを上げていくと
出逢う人から仕事、情報に至るまランクアップすることも分かります。
そう考えると、波動域が変わってくると
これまで馴染んでいたはずの人や職場などが
なんだかしっくりこなくなる事もあります。
だから別れや分離の全てをマイナスなものと捉える必要も
無いように思うのです。
また自分よりも高い波動域の方と接する事は
理屈抜きにとても心地よいですし
変なコンプレックスやプライドで、ご自分の殻を閉じている場合を除いては
物事が通常より順調に運んだりと、ワクワク現象が確実に増えます。
ここで誤解のないように申し上げますが
波動域の高い人は、低い人より偉いという意味ではありません。
より磨かれた魂、霊性が高いとでも言いましょうか?
もし、ご自分の波動域が上がったからと
偉いとか優れているといった感覚で
相手を卑下して見ているとすれば
まだまだ磨きどころの多い魂だと感じます。
自分の波動域が上がるという事は
今までよりも、例えば 基本的に毎日が楽しく
何事にも自然と、感謝の思いが湧いてくる
生き方に裏表が無く迷いが減り、生きやすくなる
以前より事がスムーズに運びラッキーな現象が増える
周りとのシンクロ現象も多発する
ユニークでありながらも他者や自然と調和している
しっかりとした考え方を持ちつつも
正誤、善悪、勝ち負け等、二元論で物事を見なくなっていく
自分のやりたい事、やっている事が
無意識に誰かの喜びや貢献に、繋がっている
ご自身の存在自体が
他者にもポジティブな影響を与えている
簡単には、そんなところではないでしょうか?
地球上は沢山の恵みに溢れていながら
その多くを目の前にしつつも
その価値に気づかぬままに
通り過ぎていく事もまた多い
心美しき者によって、発見されたそれは
時には、高き志とともに商品化される
志高き者の周りには
その思いに同調した、志高き仲間が集まる
素晴らしい商品のみならず
あたたかい人の想いを乗せた物の先には
誰かの笑顔がある
そう「人」がいる
こういった素晴らしい商品や会社は
この世の中にきっと沢山ある
でも、自分の必要とするタイミングに
出逢うのはほんの一部で
相手が物であろうと、会社であろうと
また情報やサービスであろうとも
そこには必ず
「人」のエネルギーが介入している
…全てのご縁に感謝…
これでもかと、度重なる熊本での地震
大変な状況、危険、不自由さ
不安一杯の心労の中にいらっしゃる
心痛いです...
片付けたと思ったら、また崩壊...
何から手をつけていいのやらと
熊本が終わったと思いました
でも、負けませんからの声
奥様が大けがをされ搬送されたのに
ご近所の安否確認に廻るご高齢の先生
多くの知人の混乱の中
優しさ強さを感じながら
こんな時は頼って下さいと言いつつも
必要な物を送るくらいしか
励まし祈る事くらいしか
出来ないかもしれない
でも今、自分に出来ることをしよう
状況判断しながら
そして被災した方々に寄り添いつつも
自分の足元をしっかり見よう
必要以上に不安心理を拡張させない様
自分軸を大地に立てる
腹を据えよう
他人事ではない
集合意識をどの方向に向けるかは
私たち各々の思い次第なのだから
そして日本が暗くならない様に
今笑える人は感謝しょう
今笑える時間は大事にしょう
...祈りつつ...